挨拶

目を閉じると、朧気に浮かんでくる映像がある。それは酷く色褪せていて、その色が確かなものかわからない。目の前の人物ーー多分、男の子だーーの顔もぼやけていて誰なのか判別できない。けれど、この映像は夢でも妄想でもなく自身の記憶であると、何故か自信を持って言えた。
「前世ってやつじゃない?」
さら、と明るい茶髪を揺らして少女が笑った。真面目に話しているのだが、笑われているとは。いや、自分でもおかしなことを言っているとわかってはいる。ただ、実際に他者に笑われるとムッとくるものだ。
「テレビでもそういう人の話、やってるよね。日本人でもいたような……」
「そうなんだ」
「まさか友だちにそういう子がいるとは」
「そうと決まったわけじゃないよ」
まあね、と少女がからっと笑う。本当に、この子はよく笑う。例えるならば、太陽のような子だ。表情が乏しい私には眩しすぎる気がする。そんな彼女に「友だち」と言われるのは、なんだか……なんだか?
「その男の子と『来世でまた会おうね』とか約束してたらロマンチックだよねー!」
「……少女漫画の読みすぎだと思う」
「えー、そうかなあ」
約束。その言葉にどきりとした。少女は冗談のつもりで言ったのだろうけれど、私には心当たりがあった。いつの日か、約束を交わした気がするのだ。その相手は多分、あの男の子。そして、
(……また、来てないな)
視線の先には誰もいない机と椅子。長らく空いているその席は、いつまでも主を待ち続けていた。その姿はどこか寂しげで、物悲しい気持ちになる。
「また見てる」
ハッとして少女を見た。彼女はにやにやと笑っている。面白くてたまらない、といった笑みだ。
「そんなに気になる?あの人のこと」
尋ねられて、咄嗟に言葉が出なかった。息が詰まるような苦しさを覚えて、思わず首元に触れた。は、と短い息が漏れる。気になるとか、そういう次元のものか?これは。
「まあ、気になるよね。……見たことがないもん」
少女は眉尻を下げた笑った。そこにどんな感情が乗っているかは、想像に容易かった。どくり、と心臓が動く。
「皆、どうしても気になっちゃうよ」
それ以上は少女の言葉を聞きたくなくて、目を伏せた。私は違う、と言えなかった。皆と自分は、何が違うのだろうか。興味の対象は、間違いなく一緒だった。
「アルビノなんて」
ざく、と草を踏みしめて歩く。その音や森の匂いは、ひどく懐かしい気持ちにさせる。どこかで、同じようなことをしていた。森を歩くなんて過去に何度もあるけれど、それらの記憶ではなくて、もっと昔の、色褪せた、記憶……?
手に持った懐中電灯の光は頼りない。辺りはもう真っ暗で、ぽつぽつと立っている街灯は、それぞれがひとりぼっちに見えた。暗闇の中というのは、距離感が掴めずふわふわとした足取りになる。だけれど、不思議と怖くはない。
街灯に近づいて、見つけた。街灯の下に置かれているベンチには座らず、わざわざ明かりから離れたところに、美しい白。夜が彼を隠そうとしても、その白だけは消えない。彼は地べたに座り込んでいた。
とくとく、と心臓が鳴る。いつもより少し速い鼓動は、私がこの世界で息をし始めた証拠だった。
彼が私の足音に気づいて顔を上げる。
私が彼の前に立つ。
「……おはよう」
私の口から絞り出されたのは、はじまりの挨拶。辺りは真っ暗で、その挨拶は誰から見ても不適切だろう。
「おはよう」
あの教室で聞いたことがある彼の声よりも、幾分柔らかい声。耳あたりの良い、すっと身体に浸透していくような声。やはり、彼は綺麗だ。彼の赤い瞳はきらきらとしていて、ずっと見つめていたくなるような、自分がその瞳に飛び込んでひとつに溶けたくなるような気持ちになる。
す、と彼の瞳が細められる。街灯の光が眩しかっただろうか。私は焦って躓きながら彼の左側に腰を下ろした。
「急がなくてもいいのに」
「い、急いでないよ。ただ躓いただけ」
「そっか。君がそう言うなら、そうなんだろう」
私に興味があるようで、ないような、ゆっくりとしたテンポの会話。
彼とこうして会うのは、何度目だろうか。初めて彼を見た時に、ただ彼の白が美しいと、息を飲むほどに綺麗だと思ってから、私はいつでも彼を探している。
「今日は何があった?」
どきりとして、彼の横顔を見る。彼はただ目の前の暗がりを見つめていて、私を見てはいない。
「変な顔をしてる」
「……変な顔」
「うん。学校で、何かあったんだろう」
そんなにわかりやすい顔をしていたのだろうか。隠していたつもりなのに、彼には何でも見透かされてしまいそうで少し怖い。それでも、嫌な怖さではないのが不思議だ。
私は今日のことをたどたどしく話した。誰かに何かを伝えるのは昔から苦手だ。早く話さなきゃと思うと、言葉がわからなくなって、頭の中がぐちゃぐちゃになって、泣きそうになる。けれど、彼はいつでもゆっくりと私の言葉を待ってくれる。そのことを認識した時、私は心底安心した。彼は待っている。私を振り返りはしなくても、その先で待ってくれているという、安堵。
「ごめんね。その、前世とか訳がわからないよね」
「いや。……うん、そうだな。確かに、よくわからないけど」
わからない、と言われて少し、いや、かなり残念に思った。落ち込むというか、彼はわかってくれるのではと思っていたから。
「でも、君が僕に話しかけに来てくれるのは、そういうことだったんだね」
「……え?」
「いつも不思議だった。周りと違う僕を、馬鹿にするでもなく、遠巻きにするでもなく、どうしてそんな目をして見てくるのかなって。ここにいたら、君は僕と話までしにきた」
そんな目って、どんな目だろう。少し眉を寄せて考えていると、彼は不意に私を見た。ぱちり、と目が合う。
「なんて言えば良いんだろう。君の目に合う言葉が見つからないな。懐かしむような、愛しいものを見るような……でも、少し悲しそうな」
思わず、自分の目の辺りに触れた。羞恥で頬が熱くなる。
「だから君を知りたかった。君だって、僕を普通の人間とは思わないだろう。なのに」
「違うよ」
私は彼の言葉を途中で遮った。彼は赤い瞳をぱちくりとさせる。いつも落ち着いた雰囲気の彼が、急に幼く見えてくすりと笑みが零れた。
「皆違うもの。君だけが皆と違うわけじゃない。私だって、他の人とは違う。皆と違うって、普通だよ」
彼は呆気に取られたような表情を見せて、やがて柔らかな笑みを浮かべた。どくん、と心臓が大きく鳴る。
「君って、いつもそうだ。いつも、そう……ずっと、昔から……」
「昔?」
今度は私が呆気に取られる番だった。昔だなんて、私と彼の付き合いは短いものだ。それなのに「昔から」とは、もしかして、彼も、私と同じなのだろうかと期待に胸が膨らむ。
「どれくらい昔なのか、ただの夢なのか、よくわからない。ただ、そこでも僕は暗いところにいた気がする」
だけど、と彼が続ける。
「君がいた」
ハッとして息を飲んだ。その言葉は、やけに鮮明に私の耳に届いた。暗闇に呑まれることもなく、その声だけが切り取られて、真っ直ぐに私の中に入ってきた。
「君がどうか、はっきり見えているわけじゃない。でも、初めて君を見た瞬間、あれは君だと思ったんだ。……気味が悪い?」
「ううん。同じ気持ちで安心してる」
「そっか。なら、よかった。君はいつも、僕の背中を押して、手を差し出して、前に引っ張ってくれた」
「背中を押しているのに、手も引っ張るの?」
何だか可笑しくて、くすくすと笑った。彼も可笑しいそうに笑う。愛おしいと思った。こんな会話を、私はずっとしたかった気がする。
「でも、そうなんだよ。君はそんな感じだ」
「ふふふ、そう言われると照れちゃうな」
穏やかな時間が流れる。ふと、彼の左手が私の右手を覆った。驚いて彼を見ると、彼は一度目を伏せて、そして照れたように笑みを浮かべた。
「とても、大切な約束をしていた」
「……うん」
「それが何かは思い出せない。前世とか、来世とか……そんなものも、正直よくわからない。だけど、君と大切な約束をしていたことは確かだと思う。だからってわけじゃないよ。僕は、君ともっと仲良くなりたい」
目の奥が熱くなる。こんなことが、きっと前にもあった。それは真綿のように、柔らかくて、きらきらとした、あたたかな、切ない、痛みを覚える……遠い記憶。
「ここから、はじめてもいいかな?」
もちろん、という言葉は音にならなかった。ぽろぽろと涙が零れる。
私たちは誰のものかもわからない曖昧な記憶を伝って、多分、再び手を繋いだ。きっと、今日家に帰って、それからベッドで瞼を閉じても、あの映像を見ることはないだろう。だって、もう必要ないのだ。あの教室の誰もが私と彼を理解出来なくても、彼だけは私の隣にいてくれる。私だけは、彼の味方でいる。
心から望んでいた相手を見つけて、手を繋いで、再び始まった。
私たちは、新しい世界に生きる。
『遠い昔の記憶にサヨナラ』
2019/06/05