赤ん坊は自分が世界の中心であり、自分が望んだことは全て叶えられると思っている。それは当然だ。何故なら無償の愛で望みを叶える存在があるのだから。けれど、成長していくにつれ、その思い通りの世界はがらがらと崩壊する。いくら泣いても騒いでも、親がうんと頷かなければ手に入らないものもあるし、すれ違う犬に吠えられ驚くこともある。世界は驚く程に自分に優しくない。

しかし、たまに世界の崩壊を経験しない人もいる。いや、経験していてもそれに気づかない人、なのかもしれない。そういう人は、大人の身体を手に入れた後も、心は幼い子どもとそう変わらない。自己中心的で、何でも思い通りになると思っている。思い通りにならないことがあれば、癇癪を起こす。

私は幼い頃に然るべくしてその経験をした。そして無力感を覚えた。世界は自分がどうしようとも変わらない。出来ないものは出来ない。叶えられない望みは誰も叶えてくれない。

人はそこから他者との交わりを覚え、他者と助け合って生きることを知り、望みは自身の努力と他者の助けで叶えられるものとそれでも叶えられないものがあると理解する。

私も、確かにそれを理解した筈だ。けれど、私は再び「自分だけの世界」を築き上げた。
「どうせ助けてくれない」「どうせ頑張っても無駄だ」「どうせ自分なんか」。沢山の「どうせ」を積み上げて、今もまだ積まれ続けるその壁は、外の世界から私を隔離した。

思えば、昔から何をやっても人より劣っていた。周りの子たちは難なくこなすことでも、私はもたもたとして笑われていた。小学生の時の跳び箱なんて、恥ずかしかったなと思い返す。皆が飛び越えていくその箱を、私は飛び越えることが出来ずに箱の上にちょこんと座ってしまう。後ろに並んでいる子たちや、別の跳び箱をしている子たちにくすくすと笑われ、跳び箱の上でひとり、羞恥に顔が熱くなった。

私の前に立ちはだかる小さな箱は、私にとって越えられない大きな壁だった。何かをする前に諦めるようになる始めの一歩としては充分だった。何度それを越えようと踏ん張っても、一度も出来なかった。他の子たちはどんどん越えていくのに。

ぱたん、と読んでいた本を閉じた。大きく息を吐き出し、頭を背後の木の幹に預けて軽く空を見上げた。本を読みながら考え事をしてしまって、頭が少々混乱している。馬鹿なことをした。

ざく、と草を踏みしめる音が聞こえてくる。段々近づいてくる足音は、私の近くに来るとぴたりと止まった。またか、と思いながらそちらに顔を向けると、大きな目を嬉しそうに細めて笑う少女が立っていた。

「や!またここに居たんだね」
「……どうも」
「うーん、今日もテンションが低い」

可笑しそうにからからと笑って、少女は私の隣に腰を下ろした。あまり気にしなさそうなのに、わざわざ私に挨拶(というほどのものでもないかもしれないが)をしてから腰を下ろすとは律儀だなと思う。

「今日は何を読んでたの?」
「……カラスの生態について」
「カラス?そういう本あるんだ。面白い?」
「まあ」
「へー。私も読んでみようかな」

少女が本の表紙を覗き込んだ。本気で読むつもりなのだろうか。とてもじゃないが読むように見えない、とまでは言わないけれど、本を読むイメージはない。どちらかと言えば、放課後は友達と話題のタピオカミルクティーでも飲みに行っていそうな子だ。

なのに、どうしたことか。少女は毎日のように私に声を掛けてくるのだ。驚いたことに、私が教室に居なければ私が居そうな場所を探すのだ。

自慢じゃないが、私はつまらない人間だ。何をやらせても並かそれ以下。人に誇れるものなど何も無いと自負している。一緒にいても、私は人と喋ることも苦手だから、話すことも特にないし出来れば話しかけないでほしい。話しかけてもいいけど、私には何も期待しないでほしい。

「本を読むイメージはないな」
「ええー!私だって本くらい読むよ」
「漫画?」
「小説ですぅ」

少女は唇を尖らせて言った。小説と言っても、私とは読むジャンルが違うだろうな。多分、女子高生が好きそうな恋愛モノ。

「おすすめの本、貸してくれない?」
「え」
「そうしたら、もっと話が盛り上がると思うの」

盛り上がる必要はあるのか。申し訳ないことに、率直にそう思ってしまった。それに、私が好きな本を少女が読んだとして、とてもじゃないが楽しく話が出来るとは思えなかった。そもそも、読めるのか。

「『こいつに読めるのか?』って思ったでしょ」
「……えっと」
「いいよいいよ、気を遣わなくて。本読むイメージないもんね、私」

にっこりと少女が笑った。どくり、と心臓が嫌な音を立てる。不快に思わせてしまったかもしれない。

「ごめん」
「え?全然大丈夫だよ。あまり気にしないで。本当に、気にしてないんだからさ」
「……うん」

少女から目を逸らして小さく頷くと、くすくすと笑い声が聞こえた。ああ、本当に気にしていない様子だ。安堵して、息を吐く。

「でも、そこが君の良い所だと思うよ」
「……え?」

不意を突かれて、思わず反応が遅れた。今、少女は何と言っただろう。「君の良い所」?私の良い所?どこが?気にしすぎるところが?良い所なんて、そんなのあるものか。私は私の良い所なんてわからない。あって、たまるか。

「変な顔してる」

少女はとても優しい表情をしている。何で、そんな表情をするのだろうか。わからない。わかりたくない。そんな目で私を見る人なんて、今まで居なかった。
ぴし、と遠くからヒビが入ったような音が聞こえた。

「他人のことを考えられるのは、君の良い所だよ。気にしすぎてしまうのは、君が優しいからだよ」
「違う」

咄嗟に、否定の言葉を吐き出した。

「私が、皆に嫌われたくないからだ」

何も出来ない自分が嫌いだ。何をやっても、皆の笑い声が耳にこびり付いて離れない。周りの目がとても怖くなった。どう思われるのか、気になって仕方がない。だから、何もしない方がマシだと思った。息を潜めてひっそりと生きていくのがお似合いだと思った。

「それ、おかしなことじゃないよ」

きっぱりと、少女が言い放った。

「嫌われたくないって、きっと誰もが思う。だけどそう見えないのは、嫌われたら嫌でも、普段からはそこまで意識していないから。君みたいに、嫌われたくないと思うのも、周りの人の目が気になるのも、他人のことを気遣えるからだと思うな」
「……それは、都合良く解釈しすぎじゃないかな」
「そうかな?周りの人の目が気になる人は、周りをよく見てる。周りからどう思われるのか気になる人は、人にとって何が嫌なのか、ちゃんと考えられる。例えば、今は君が気遣える人間じゃないとしても、そうなれる人だよ」

そんな風に言われたことなど、今まで一度もなかった。両親さえも、私にはそうは言わないし、そもそも私の気持ちを両親に話したことはなかった。二人が大切に育てている私が自分のことをそう思ってるなんて、申し訳なくて言えなかった。

「だから、君って好きだな」

少女は笑う。どこかで、壁を叩く音がする。それは優しい声を伴って、私の鼓動と調和した。ふわりと、頭を撫でるように。そっと、柔らかく手を取るように。

ぽろり、と涙が零れ落ちる。一度溢れてしまえば止めることは出来ず、私は顔を伏せた。
昔から何も出来ない自分が嫌いだった。だけど、少女は私を「優しい人」と嬉しそうに言って、そんな私を「好きだな」と言った。
あの跳び箱を飛び越えられない人間でも、良いのだろうか。何をしても人より秀でたところがない人間でも、壁の外に出てもいいのだろうか。息を、殺さなくても。

「ねえ、おすすめの本を貸してくれない?」
「……いいよ」

絞り出した声は掠れていて小さく、少女の耳に届いたのかどうかわからない。だけど、伝わった気がした。

『自分の世界にサヨナラ』

2019/06/14