多分、大好きな人がいた。 

土で作られた小さな山に、木の板が差し込まれた簡易的な墓は沈黙を守り続けている。木の板には名前も彫られず、その墓は誰のものかわからない。その墓の主の死を悼む人は、一体どれだけいることだろう。

墓の前に座り込む。目を閉じると、そよそよと風の吹く音が耳に届く。昔から風が好きで、よく外に出てはその音を聴いていた。草や木が揺れる音、頬を撫でる優しい温度、時折激しく吹き荒れる気まぐれな性格。彼の人は言った。「風は人の心をよく見てる」と。

暫くそうしていると、先程までなかった筈の眠気が襲ってきた。今日は天気も良くて、風も穏やかで気持ちがいいから仕方ないな。そうぼんやりと思いながら、特に抵抗するでもなく私の意識は沈んでいった。




















「またこんな所で寝ていたのかい?」

遠くで優しい声が聞こえたような気がして、ふっと目が覚める。霞む視界のまま顔を上げると、ぼんやりと人の影が映った。

「今日は暖かいけれど、女の子が外で眠るのは危ないよ。せめて俺を呼んでよ」

ぱちり、と瞬きをする。おかしい。この声は、もう私の元に届く筈のないものだ。
ああ夢か、と理解するまで数秒。多分これは私の記憶で、私は夢の中でそれを思い出している。けれど、やはりおかしいな。彼の姿は靄がかかったようによく見えない。夢だから?

「聞いてる?」
「……うん。聞いてるよ」
「いつにも増してぼんやりしているね」
「寝起きだから」
「そりゃそうか」

ぽんぽんとリズム良く交わされる言葉に気分が浮上する。彼の姿はよく見えないけれど、こうして会話できるなら、なんでもいいや。

「今日は何をしようか。お昼寝の続きでもする?」
「もう目が冴えちゃったよ」
「早いなあ。俺なんか、いくら寝ても寝足りないのに」
「眠りが浅いのかな」

くすくすと笑い声が聞こえる。心地の良い柔らかな声だ。私はこの声が好きで、いつまでも聞いていたいと毎日のように思っていた気がする。

「散歩でもしようか」
「泉に行きたい」
「また?好きだね」
「水が綺麗だから」

まあね、と彼が頷く。彼が手を差し出すので、私はその手を取って立ち上がった。夢だからか、手の温度は感じない。少し、残念に思った。

そのまま手を繋いで歩く。迷いなく進む足は、目的地であるその泉に何度も行っている証拠だった。

「朝は何をしていたの?」
「猟に出かけてたよ」
「収穫は?」
「イノシシだな」
「美味しそう」

今夜のごはんは豪華だ。彼は料理が上手だから、きっと美味しいごはんを振舞ってくれることだろう。思わず鼻歌交じりに軽くスキップをする。彼が可笑しそうに笑った。気分が良い。何だかふわふわとした気持ちだ。

そうだ、これが幸せという気持ちだった。私は幸せだった。毎日彼と会って、話して、笑って、すごく幸せだったのだ。それをもう一度味わうことが出来るなんて、今日はラッキーな日だ。目が覚めても彼が居たなら、それ以上の幸せはないのだけれど。そればかりは、不相応な願いだ。

「さあ、着いた」

ふわ、と水と森の匂いが鼻腔を擽る。森の匂いだけでも好きだけれど、そこに水の匂いが混ざると、さらに好きだ。とても澄んだ空気になって、自身の中にある悪いものが全て洗い流されていくような、そんな気分になる。

「やっぱり綺麗」
「そうだね。ここに来ると心が落ち着くよ」

思わず感嘆の息が漏れる。木々の隙間から漏れている光が水面をきらきらと照らしていて、幻想的な光景を作り出している。

「君がここに来る時は、何か嫌なことがあった時だ。……何かあったのかい?」
「え、そう、だった?」
「自分じゃあ気付けていないのかな。『ここに来ると元気になる』っていつも言ってるし……それに、君のことを見ていればわかるよ」

頬が赤くなっていくのを感じた。大切にされていると思える言葉だった。

嫌なことと言えば、君が×××しまったことだけれど。
……あれ?おかしいな。君は、どうしたんだっけ?大事な所が、何故か言葉にならない。言葉を外に出そうとしている訳でもないのに。心の中でさえそれが出てこないのは、何故だろう。

「嫌なことは、あったよ」
「そっか」
「聞かないの?」
「聞かないよ。話したくなさそうだ」
「よくわかるね」
「よく見ているからね」

そっか、と小さく呟き笑みを浮かべる。彼と居る時の安心感は、こういう所から来る。

「凄く、寂しそうに見えるよ」

彼の声も、酷く寂しそうに聞こえた。私の感情が伝わって、彼も寂しくなっているのだろうか。此処は夢の中なのだから、彼が私の寂しさの理由を知る筈がないのだ。

でも、あれ、そういえば、さっき水と森の「匂い」がしたけれど、夢って「匂い」はあったっけ?

そんな疑問が頭に浮かんで、消えた。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」

頭を横に振って、そのまま俯いた。もう現実では叶えられない状況と、やけにリアルな「匂い」がミスマッチで、急に悲しいという感情がぐっとこみ上がってきた。

「……凄く、寂しいよ」
「……うん」
「大切な人がね、急に、いなくなった」
「……」

言葉にしてしまえば、頑なに守っていた心の壁は崩れるだけだった。寂しい。悲しい。辛い。泣きたい。叫びたい。私も、死んでしまいたい。負の感情が溢れて止まらなくなる。それはやがて涙となり、ぼろぼろと零れ落ちていく。

「俺も、寂しい」
「……え?」

私は涙を拭うのも忘れて、彼を見上げた。相変わらず靄がかかったような彼の姿では、彼の表情はわからない。

「君と会えて嬉しかった。君と暮らせて嬉しかった。彼が居なくなった後の君は元気がなくなったけど、段々、少しずつ元気になってくれて嬉しかった」
「彼が居なくなった後……?」

私は小さく繰り返した。
彼は、何を言っている?「彼が居なくなった後」って、いつのこと?

彼が言う「彼」は、一体誰だ?

「大好きだよ。君のこと。出来れば、君とずっと一緒に居たかった。でも、ダメなんだ。俺はもう、行かなきゃ。君を連れてはいけない」

頭が痛い。何かを思い出そうと、必死に記憶を探る。頭が、痛い。
とめどなく涙が流れる。涙と一緒に、痛みが、悲しみが、苦しみが、切なさが、地面に落ちていく。

「ごめんね。俺は彼の代わりにはなれなかったけど、君を少しでも幸せに出来ていたら、俺も幸せだ」

待って、待って。ねえ、多分、私の大好きな。一瞬でも、どうして忘れたのだろう。代わりじゃない。代わりじゃないよ。君は、ちゃんと君だったよ。

必死に口に出そうとして、だけどそれは音にならず、焦りだけが喉を締め付けた。

「ありがとう。君はもう、大丈夫」

彼は、あの子は、綺麗に笑った。

















ふ、と意識が浮上した。ゆっくりと目を開けると、私の大好きな泉が目に飛び込んできた。

「……何で、外で寝てるの」

そう呟きながら、思い返す。そういえば、私は彼のお墓に行って、そのまま寝てしまったのだったか。いや、でも、何で泉。

ぽろ、と涙が零れた。驚いて、頬を伝う涙に触れる。それから、それまで見ていた夢のことを、ぼんやりと思い出した。
涙を拭って、立ち上がる。私はお墓への道を戻り始めた。馬鹿だなあ、と思いながら。

あの子は、幸せだったのだろうか。夢で見た「彼」があの子ならば、あの子は「君を少しでも幸せに出来ていたら、俺も幸せだ」と言ってくれた。でも、でも、そんなのは私の都合のいい夢なのではないか。それに、夢の中でも、あの子は「彼」だった。現実でも、夢でも、「彼」に重ねられて……それで幸せだったって、そんなこと、きっとない。

ねえ、ごめんね。
私は「彼」が私を置いていってから、おかしかったよね。他の人からも匙を投げられて、それにも気づかないまま、ずっと泣いたり、怒ったり、放心したり、本当にダメな人間だったよね。
なのに、君は一度も私から離れはしなかった。それが、どんなに幸せなことだったのか、私にはわからなかった。

「ありがとう」って言えなかった。夢の中まで、会いに来てくれたのに。私はそこでも、君を「彼」だと思い込んで、夢の中で「彼」に会えたと喜んだ。

ごめん、ごめんね。

誰のものかもわからない簡易的な墓の前にしゃがみこむ。小さな山に両手を添えて、土に額をそっと付けた。

ありがとう。そして、ごめんなさい。

何度も何度も心の中で唱えて、祈った。「彼」とあの子が、幸せになれるように。

私を守ってくれてありがとう。傍に居てくれてありがとう。私はもう、大丈夫だよ。だから、空の上で待っていて。私もきっと、数十年後に会いに行くから。

風が吹く。柔らかな風が、私の体を優しく包み込む。あの子の体温を思い出した。とても暖かくて、ふわふわと気持ちのいいあの子。ご主人様に似て、そっと私の傍に寄り添って離れない、あたたかなあの子。


『大好きなあの人にサヨナラ』
2019/07/17